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社寺参詣曼荼羅(しゃじさんけいまんだら、または寺社参詣曼荼羅〈じしゃさんけいまんだら〉、参詣曼荼羅〈さんけいまんだら〉とも)とは、参詣者の勧誘と霊場案内を目的として霊場(神社・寺院)を描いた宗教的絵画を指す学術用語〔下坂449 、大高9 〕〔後述のように、この用語は社寺の二字を冠して確立したが、前近代においては「社寺」よりも「寺社」が一般的があったことを踏まえて「寺社参詣曼荼羅」の語を採る見解(下坂423 )、あるいは絵画の対象が神社や寺院にとどまらず、霊山・霊場を描くものであることを踏まえて、単に「参詣曼荼羅」とするべきという見解もある(西山68-69 、大高13 )。以下、本項では単に「参詣曼荼羅」とするが、単に記述上の便宜からのものであることを付記する。〕。 作例の多くは紙本著色の形式による素朴かつ安価な絵画で、勧進活動のために持ち運ばれた形跡を残している(→#形態)。歴史的な起源としていくつかのカテゴリーの絵画を指摘することができる(→#起源)。その成立には、戦国時代以後、権力の保護に依存しえなくなった寺社が、本来は寺社外部の存在である本願による勧進活動に依拠するようになったという背景があり、参詣曼荼羅は勧進活動の手段の一つとして使用された(→#成立)。 参詣曼荼羅には、先行する絵画のいずれにも還元しえない、独自の空間構成が備わっている(→#社寺参詣曼荼羅の空間構成)。その作成を企図した作成主体は、西国三十三所を中心とする寺社の本願である。三十三所寺院を描いた作例には様式や人物図像において、それ以外の作例とは区別される共通性が見られる。そうした共通性は、これらの参詣曼荼羅がいくつかの工房によって作成され、また、それらの工房が定型の確立を主導したためであった(→#系統分類と工房)。しかし、それぞれの寺社や霊山の事情に即して、絵図がどのように作成され、使用されたかは一様ではなく、そうした相違は時には構図にも反映された(→#那智山と西国三十三所寺院、#霊山の参詣曼荼羅)。参詣曼荼羅は遅くは19世紀まで作成されたが、成立の背景にあった寺社経済が近世において回復を示したことにより、本願とともに参詣曼荼羅もそのあり方を変容させた(→#社寺参詣曼荼羅の近世)。 ==形態と起源== ===形態=== 参詣曼荼羅の特徴として指摘されるのは、徳田和夫の整理によれば次の8点、特に2から5である〔徳田24-25 。絹本の本数は原文ママ。〕。 伝来している全ての作例が、これら全ての特徴を備えているわけではないが、これらの点により参詣曼荼羅のイメージを把握することができる〔大高37 〕。 参詣曼荼羅として今日に伝来する約150点の大半は紙本著色による作例で〔大高36 〕、朱・群青・黄土・胡粉といった泥絵具を顔料として描かれた安価な絵図である。彩色的に原色的効果があるが、描写法は素朴である〔福原214 〕。絹本著色による作例もあるが25本が知られるのみである。絹本の中で立山曼荼羅は14点を占め、大半が19世紀以降の作例である〔大高39-40 〕。 立山曼荼羅にさかのぼる年代の絹本の作例は、一幅の大型の掛け幅という携帯に適さない形態をとっており、持ち運ばれることを前提とせず、それぞれの寺社から外部に出ることはなかった可能性が高い〔大高40 〕。ただし、掛幅形式が当初の姿であった訳では必ずしもない。掛幅形式として伝来する紙本作例には折りたたんで携行したであろうことを示唆する折り筋が付けられていることが多い〔だけでなく、那智参詣曼荼羅の幾つかの作例にあるように吊り下げて使用するための意匠が伴っているなど〔大高41 〕、各地に持ち運んでは霊場の霊験功徳を説教唱導しては観衆に現世利益を説く、絵解きによる勧進活動の道具であったことを示すと考えられている〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「社寺参詣曼荼羅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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